Thursday, April 17, 2014

タナキル・ルクレールについてのドキュメンタリー


1940年代半ばから50年代初めにかけてニューヨークシティ・バレエで活躍したタナキル・ルクレールについてのドキュメンタリー「Afternoon of a Faun: Tanaquil Le Clercq」を観た。

タナキル、愛称“タニー”は、1929年、フランス人の父とアメリカ人の母との間にパリで生まれる。3歳の時に家族と共にニューヨークに引っ越したタニーは、ジョージ・バランシンが設立したスクール・オブ・アメリカン・バレエに入学。バランシンに才能を見いだされて、15歳の若さでニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)の前身バレエ・ソサエティのメンバーと共に舞台に立った。

タナキル・ルクレール。女優でも通用する美しさ!

長い手足でほっそりとした長身といういかにもバランシン好みのタニーは、バランシンのミューズの1人となり、バランシンは「シンフォニー・イン・C」、「ラ・ヴァルス」、「コンチェルト・バロッコ」、「ウェスタン・シンフォニー」といった名作を彼女のために創り出した。タニーは、バランシン版「くるみ割り人形」の初演時にデュードロップ・フェアリーも踊った。
タニーとバランシン

タニーに惚れ込んだのはバランシンだけではなかった。バランシンと共にNYCBスタイルを確立するのに貢献したジェローム・ロビンズも、タニーの美しさに魅了され、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後」を使ったネオクラシカル・スタイルの同名作品「Afternoon of a Faun」を振り付けている。
しかし、1952年、タニーは25歳年上のバランシンと結婚して、タニーを女性としても愛していたロビンズをガッカリさせる。キャリアの上でも私生活の上でも充実した日々をおくっていたタニーだったが、1956年、NYCBのメンバーたちとヨーロッパ巡業に出た際に、当時、大流行したポリオに罹ってしまう...

タニーの悲劇については、同じくバランシンのミューズだったマリア・トールチーフを描いた山岸凉子の短編漫画「黒鳥—ブラックスワン」でさらっと触れられているため、少しばかりの予備知識はあったのだが、ロビンズとの友情やポリオになった後の半生については全く知らなかった。映画は、当時を知る人々とのインタビューや記録映像、スチル写真、そしてタニーとロビンズとの交換書簡などに残るタニーとロビンズの言葉などで綴られるが、最も印象に残ったのは、「Afternoon of a Faun」をタニーと踊ったジャック・ダンボワズのインタビュー映像で、タニーと共に踊ったと同時に、タニーとバランシン、タニーとロビンズの関係を実際に間近で目撃していただけに、途中で「これ以上、話すことは出来そうにないよ...」と苦しそうに言葉に詰まるシーンなど、胸に迫るものがあった。

そのダンボワズの言葉で一番印象に残ったのは、バレエダンサーであれば、タニーのように悲劇的にキャリアに終止符を打たれなくても、遅かれ早かれダンサーでは居られなくなる時がやってくるということ。「自分はもはやダンサーではない。じゃあ、私っていったい誰なの?」という問い。
1人の悲劇的なバレリーナの半生を通してバレエの本質を鮮やかに映し出した素晴らしいドキュメンタリーだった。








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