Sunday, March 4, 2012

火と戯れる女:原作書と映画と

スティーグ・ラーソン著の「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」は、デヴィッド・フィンチャーによる映画化作品を観て、原作を読んで、そして本国スウェーデンの映画化作品を観るという順番で鑑賞してきたが、「ミレニアム」三部作の第二作「火と戯れる女」はまず原作を読んだ。(幸いにもロサンゼルス図書館に日本語訳の蔵書があって、日本語訳で堪能できた。)

「ドラゴン・タトゥーの女」は、40年ほど前に起きたティーンエージャーの失踪事件の謎を中心に、富豪一族の複雑な人間関係が絡むミステリー小説だったが、2作目の「火と戯れる女」は、わずか数時間のうちに3人の人間が殺される殺人事件が主軸となり、刑事マルティン・ベック・シリーズを髣髴とさせるような警察小説仕立てになっている一方で、ヒロイン、リスベット・サランデルの過去が明らかにされていくサスペンスも味わえるという、1作目とは趣がガラリと違う小説になっているのは、嬉しい驚きだった。サランデル・ファンとしては、身長150cmちょっとの小柄な彼女が小気味良く大の男どもの攻撃をかわしていくくだりは、かなりのカタルシスでもあった。

「火と戯れる女」は、スウェーデン版は既に映画化されているということで、早速DVDを借りてきて観ることにした。

本作は、キャストは前回と同じだが、前作より20分も短くなっている。同じ連続殺人事件を、サランデルが犯人だと決めてかかっている警察と、サランデルの無実を信じているミカエル・ブルムクヴィスト、そしてサランデル本人が追っているのに、上映時間は短くなっているから、自然とはしょっているところも多くなる。サランデルとミカエルは、この「ミレニアム」シリーズの主役であるから、はしょれないのは理解できるが、その犠牲になっているのが刑事たちだったのは、原作が優れた刑事物ミステリーの色彩が濃いだけに残念だった。
その結果、スウェーデン映画版「火と戯れる女」は、原作のストーリーを映像化しただけに留まる「薄い」作品になってしまっている。

小説の映画化というのはなかなか難しい。ベストセラーだったりすると、読者の期待やイメージを裏切らない映像化にしなければいけないが、まずそれ以前に、映画製作者側が、原作に対して自分なりに消化した解釈や視点を持って臨まないと、文章で書かれた小説をカメラで撮影してなぞっただけの作品になってしまう。
その良い例が、スティーヴン・キングの「シャイニング」。1980年にスタンリー・キューブリックが「シャイニング」を映画化した際は、原作のあちこちを大きく削った代わりに、キューブリックが関心を寄せていたと思われる部分を大きく膨らませ、その結果、キューブリックの個性や美学が全編を通してこちらに伝わってくる、ホラー映画の名作の1つになった。ところが、原作に忠実ではなかったということでキングは大いに不満だったらしく、自ら脚本を書き、製作総指揮まで務めて、1997年にTVのミニシリーズとして「シャイニング」を発表。確かに原作に忠実ではあったが、逆に「こんなんだったら原作を読めば済む、観る必要を感じない作品」だと思わせるような凡庸な結果に終わっていた。キングのヴィジョンは原作を読めばわかるわけであって、映画というメディアに作り変える以上、そこに作り手の新たな創意が入らないのであれば作る意味は無い。

そのような事を考えると、デヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」は、映画作家としてのフィンチャーの個性が随所にうかがえる良質の映画になっている。アメリカの評論家の中には、ノオミ・ラパスのサランデルに比べ、ルーニー・マラのサランデルは冷たい、人間性が感じられないと評している人も居たが、私は逆に観客にさえ心を開かないようなサランデルに魅力を感じた。それと、ブルムクヴィストは明らかにダニエル・クレイグの方が適役。原作でのミカエルは、ハンサムというわけではないが、女性を惹きつけずにはいられないような魅力がある人物として描かれているが、スウェーデン版でミカエルを演じたミカエル・ニクヴィストには、失礼ながらそのような魅力は感じられなかった。

ハリウッド版「ドラゴン・タトゥーの女」は期待されていたほどのヒットにはならなかったので、続編が作られるかどうかについて、必ずしも楽観的にはなれないような状況らしいが、フィンチャー+クレイグ+マーラのトリオで是非、残りの2作も映画化してもらいたいものである。

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